HSP×社畜のトキメキ処世術(116)「思考停止」は人生地獄行きのワケ | 損切り君がいく

HSP×社畜のトキメキ処世術(116)「思考停止」は人生地獄行きのワケ

photo lavender flower field under pink sky 人生
Photo by David Bartus on Pexels.com
Pocket

みなさんおはようございます。孤独のサイコマンです。

きょうは思考停止は人生地獄行というテーマでお伝えしていきます。

私は社畜20年の40代前半のサラリーマンですが、

これまでの人生を振り返ることが多くなりました。

というのも一つは成人までの20年間から社会人としての20年をおえて、これからの20年について

どう生きていくか真剣に考え始めたというのが大きいのですが、

本当に「思考停止」で人生生きてきたことを痛感している毎日です。

私の人生体験を赤裸々にお話することで、「思考停止」ということがいかに人生を無理ゲーに陥らせてしまうのかを伝えることで、少しでもお役に立てれば幸いです。

①学歴至上主義

man person people woman
Photo by Ivan Samkov on Pexels.com

一つ目は「学歴至上主義」という妄想に対して何も考えずに勉強だけして生きてきたということです。

中部地方の田舎出身で、いわゆる「偏差値至上主義」真っ盛りの時代に生きてきた世代が40代だと思いますが、私も多分に漏れずそのうちの1人でした。

小学校のころからなまじ勉強が比較的できたので、「いい大学行って大企業に・・」という典型的な日本の年功序列・終身雇用社会の入り口にすでに、小学校のころから立たされていたということになります。

もちろん、今もそうですが、このころしっかり勉強して、いわゆる有名大学に入れさせてもらったからこそ、こうしたコロナ禍でもすぐにリストラなどにあわず、ある程度の給与ももらって、もっと厳しい状況に陥っている人もいる中で、まだ比較的生き延びている部類には入るのかもしれませんが、それでも、学生時代に学んだことが今生きているかというとまったくといっていいほど役に立っていません。

学歴至上主義になるのは致し方ない面もあるとは思います。大量生産大量消費で護送船団方式で日本がバブルに突入していったころに学生時代を生きていたわけですから、親だって学校の先生だって、「いい会社にはいったほうが安心だぞ」ということはもちろんだと思います。

ただ、親とか学校の先生が何をいったのかではなく、そのころ「数学、理科、社会、国語、英語、音楽、美術、図工、色々やらされているけど、将来なんの役に立つのか。そもそも、この勉強はなんで必要なのか」とちょっとでも疑問を持つ姿勢があるかないかで将来は全く違うものになったのだと思まいます。

もちろん10代の子供がそこまで、真剣に目の前の大人が与えてくるものに疑問をもって対抗しようとするのはそもそもエネルギーがいりますし、一部の天才か変人ではないとそういった発想はでてこないのかもしれません。

それに、学校では同級生との比較するものが「テストの点数」だけだったわけですから、絶対基準として他社より競争で優位に立てる、恍惚感に浸れるという観点でいけば、それはテストでいい点数をとることが一番人生を楽に生きることができる手段だったのです。

100点をとれば学校の先生も可愛がってくれるし、親もおいしいごはんを作ってくれる、、、子供ながら、そんな安定した人生を送れるならば、また、ちょっと勉強していい点数がとれるということがわかってしまったならばそうするでしょう。

小学生でそのことに気づかなくても、中学、高校と6年もまだ猶予はあったのですが、中学でも高校受験という物差しでほかの生徒と比較検討されるわけですから、簡単にその「学歴至上主義」の罠から抜け出すことはできませんでした。

それに、スポーツか勉強ができれば中学生という思春期では最大のイベントである女子との付き合いにおいてほかの男子よりも有利に物事を進めることができるわけですから、有利な条件は揃えたくなるのも当たり前ですよね。

こうした、学歴至上主義という罠はいわゆる大人から与えられた人間の評価基準をそのまま受け入れて、それをこなすことで、「君は全体の何番目の価値のある人間なのだよ」と告げられるというシステムに他ならないのです。

考えてみると恐ろしいシステムです。護送船団方式でイケイケどんどんの日本経済がそうさせてしまったのかもしれません。同じものを同じ時間で同じ量を生産するまさにバブリー日本経済を反映するように一人ひとりの学生の個性というものは必要ではなく、むしろ大企業にとっては器用で、いわれたことをスピーディーにこなす金太郎飴のようなアンドロイドを学校には大量に生産してほしかったのでしょう。

結果的にバブルが崩壊した後は失われた30年といわれるくらい大不況が日本を襲ってしまっていて一人ひとりの生産性を上げるようにと政府が躍起になっていることから、学歴偏重主義、偏差値至上主義がいかに間違いだったかを痛感させられています。

子供がそこまで予測して自分の人生を考えることは困難なのですから、そこは学校という組織が自律性をもっと育てるような教育カリキュラムに改定する必要があると思います。

②大企業・成熟企業至上主義

modern workplace with chairs near tables
Photo by Max Vakhtbovych on Pexels.com

次に思考停止に陥るのは「大企業・成熟企業へ入社すること」です。

私たちの世代はいわゆる1990年代後半から2000年代初頭の就職氷河期と呼ばれる世代で、

とにかく就職活動は困難を極めました。

一流大学出身の学生たちもことごとく内定が取れず、留年した同級生がたくさんいました。

私も数十社受けても結果的に1社のみぎりぎり内定をとれましたが、とにかく必死に「なんとか内定を

とって働かなければ」という思いがありました。

もちろん、親にこれ以上迷惑をかけられないという気持ちと、「ある程度有名な企業なら、しばらくはつぶれることもないだろうし、給与もある程度もらえるだろう」という安易は発想がありました。

もちろん、親にこれ以上迷惑をかけられないという気持ちと、「ある程度有名な企業なら、しばらくはつぶれることもないだろうし、給与もある程度もらえるだろう」という安易は発想がありました。

いわゆる小学校から大学までの学生の16年間で得たものというのは「学歴至上主義+大企業至上主義」という凝り固まった思考回路を持ったアンドロイド化した自分自身だったのです。

学生のときも悠久の時間があったわけですから「何がしたいのか」人生で何を突きつめる必要があるのかという考えをしっかり持つことはできました。

しかし、今の時代くらいネットが発達してたわけでもなく、リサーチをしっかりすることもなく、ただ、大学時代のゼミのメンバーが「マスコミが多い」という理由と「何となくかっこいい。給与もよさそう」といういわゆる「思考停止」の発想によって安易に、マスコミに業種を絞り、テレビ新聞雑誌メディアをかたっぱしから受験したまたま受かった1社に何も考えずに入社した結果、その先の地獄が待っていたのです。

いまはユーチューブなどを見てると、有名な起業家の方々は高校生ですでに起業をしていたり、とにかく早い段階で「大企業病」に自分が感染させず、自分の頭で考え、もっとも自分自身を最大限生かせる方法を模索していた方々が多いと痛感させられます。

金融の知識をユーチューブで紹介して一躍有名になられた両学長も私はよく拝見しているのですが、高校ですでに起業されていたということをおっしゃっています。

私が高校のときはどうでしょうか?自分で高校で起業するなんて、今でも夢にも思えていないのに、学生の時点では目の前の試験のテストでいかにいい成績をあげるかそれしか考えていませんでした。

ただ、今考えればどうしても「おかしい」と思えなかったのか?なぜ大人が決めた科目、内容を強制的に学ばされる必要があるのか。自分たちで学びたいものを多くの科目からなぜ選択できないのか?

そこからまず疑問に思って担任教師に問いただすことができなかったのは私の不徳の致すところとしかいいようがありません。

そういった与えられたものをただ効率よく効果的にこなすという学生時代のマインドがそのまま会社に入社しても消えず、結果的に、先生が上司にかわり、同級生が同僚にかわり、学校の先輩が、会社の先輩にかわっただけですから、何ら構造は学校とかわらず、しいて変わったところは「お金を払っているのかお金をもらっているのか」の違いだけです。

しかし、お金を払って学校で学びを受けているときはまだ自分側に選択権や自由度はありました。義務教育とはいえ、お金をもらっている会社員とは違い、テイクする側なので、気持ち的には楽な部分が大きいと思います。しかし、会社に入ってしまうと、もう上司のいいなりになるしかありません。

なぜなら、お金という人質をとられているのですから、それがないと生活ができないといわれてしまうわけですから、そのお金の多寡を決めるのは目の前の嫌いな上司なのですから、こんな拷問はほかにはないでしょう。

自分で考えて自分の人生を生きてくるためには学生時代が本当に重要だと思います。

やはり、スポーツでも文化芸能でも、学者でも、サラリーマンでもいいですが、「私はこういう特性があって、こういうことをやりたいから、この道にいきたい」とどれくらい真剣に考えられるかが、そのあとの社会人人生を大きく左右するのです。

ここで、なんとなく、「良い大学にはいってネームバリューのある会社にはいって、高い給与もらって、港区に住んで、キレイな奥さんもらって・・」という発想で生きてきた人間と比較すれば、想像の通り雲泥の差になるわけですから、それは学生のみなさんも社会人のみなさんも本当に真剣に自分自身が何がやりたいのかを探すことが最重要だと思います。

③いじめ・パワハラ・虐待

rapid waterfall falling into water
Photo by Amber Janssens on Pexels.com

最近、パワハラとかいじめとかどんどん増えてきて問題になっていますが、これもまさに「思考停止」が陥っている負の側面がこうしたマイナスの作用に発展しているのだと思います。

パワハラも相談件数は厚生労働省によると、令和元年に8万件を超えたそうです。いじめも年々増加の一途をたどり、2019年度の文部科学省の調査では、認知件数は過去最多の61万件を超えているそうです。

どうして、このようなことになるのか。それも間違いなくこの国が企業が学校が個々の自主性を軽んじて、思考停止に陥らせて、洗脳しているからにほかなりません。いい大学いっていい会社にはいって退職金もらって、老後を過ごすというのは国、大企業、学校にとって都合がいいだけです。国は住民税所得税を確実に源泉徴収できますし、企業も同じ製品を安く大量に販売するうえでは、創意工夫よりも、同じ時間きっちり働いてくれて、文句や反論、意義などを唱えない飼いならされた人間を採用したがるものです。

学校も思いやりとか共感とか自主性とかきれいごとはいっていますが、結局、社会に出ても、こうした金太郎飴のような人間しか放たれていないわけですから、実態として、人へのやさしさ、想像性がまったく育たず、いじめ・パワハラを平気でして、自分さけ楽しく、人より優れていればよい。他人なんて知ったことではないという恐ろしい人間たちが社会で活動しているのです。

人生はゲームとかそういうことを言っている人が増えているのもそううい画一的な金太郎飴のような育ち方をしていないため、人間性がなくなり人生はゲームだとかいうようになるんです。

根本的に思考力を身につけさせないと、日本社会はただでさえ少子高齢化社会で縮小していくわけですから、一人ひとりの能力を伸ばすだけでは限界があります。相手を思いやって、自分が社会にどういう形で投入されれば役に立つことができるのか、まずそういった思考回路を学生のときに自主的に学べる社会を早急につくらないと、いじめ・パワハラ・虐待・暴力が跋扈する民主主義とはかけはなれた日本社会に堕落していくのは間違いありません。

私も含めて一人一人が立ち止まって思考することの重要性を改めてかみしめる時代が来てい思います。

(了)







コメント

タイトルとURLをコピーしました